読書メモ・注釈

文学など理解用の読書メモです。

最近のことなど

最後に更新した日が、今より300日前とあった。びっくり。

あのあと読書はしているのだが、小説系は、一月一冊のペースで読んでいる。最近で言えば、カミュの『ペスト』であるが。色々なところでメモしたり送ったので、まあまあ、面白かったということか。

今日は、土曜日であるが、終日、本のつまみ食い、拾い読みをしていた。次に読むべき本が定まらないまま、仕事の歓迎の資料を読むことに集中しても良いのかなとも思った。

千夜一夜4巻の1、読み始め 読書プロジェクト

8/11/19(日)に3巻の2を読み終え、4巻の1を読み始める。少しスピードが落ちている。

フローベールを読み終えて、私が『千夜一夜』に期待していることは、長い物語を読むと言う意志である。それは、シェーラザットの語り終えた気持ちを知ることにある。王様の心の大きな変化を知ることにある。もう一つは、物語や出来事の意味を知ることである。私はラカンフロイトの考え方を未だ知ることが出来ない。けれども、tale、すなわち物語という形を通じて、それらを迂回した形で捉えていく事になる。

経済や経営やドーキンズや、色々な本を同時に読み続けて行くだろう。しかし、2008年の正月からはじめた読書プロジェクトを続けていく。それは物語の中でも、次にやるべき鍵を見つけることである。読書プロジェクトの第1関門である。どうして、わき道にそれてしまったか。それはもう良い。これからもそうであろう。あるいは、これをやめるため、読書プロジェクトがある。これから、この事を忘れないように、いつも反復するようにしよう。限られた命の中で、マルセルのように、あるいはフローベールのように思うのかも知れない。

しかし、私に足りないのは、例えば、『集中講義デジタル戦略〜テクノロジバトルのフレームワーク』や、『ニュータイプの時代〜新時代を生き抜く24の思考・行動様式』などの本と、文学の違いを同期化できないということである。もしかしたら、これは総合化することなんでできないことなにかも知れない。この総合化という考え方は、レヴィナスの対話『倫理と無限』から、8/12/19(日)の今日のさっき得たものだ。レヴィナスについては、先にも書いた『アカウンタビリティから経済倫理へ〜経済を越えるために』から、知った本である。レヴィナスは、これまで哲学フィールドの本からは知っていた。けれども、会計という別の視点からレヴィナスを知ることができたのは新鮮だ。職業の立場のなかから哲学へのアプローチができる。であれば、哲学とは関係のない職業という境界をもうけた私のなかの抑圧は何だったのかということになる。なぜだったのか。ただ、こうした問いかけよりも、先に進む問いかけこそが、次のステージへの橋渡しとなるのではないか。

本の抑制と新たな本 ~『ソーシャルメディアの生態系』

8/9/19(金)に書店で『ソーシャルメディアの生態系』を買った。最近、こう言う系列の本を読む機会に恵まれる。これまでの読書は、サルトルドゥルーズ、カント、マルクスドゥルーズユング、金融、企業価値、資料の中で、そのミクロの世界には、そんなに理解する事なく、茫漠・漠然と憑かれるように読んできた。しかし、最近、『フロー体験 喜びの現象学』、『アカウンタビリティから経営倫理へ』などを読みながら、そうそう、上記の著述には同じく至としても、ちがったアプローチがあることを実感させられた。アカンタでは、デリダ理解への通路が開かれている。これまでの理解は業界内サークルを通じての理解だったのだ。

加えて、変な読書の領域への自己抑制があったと思う、とりわけ、小説に対する自己抑制だ。それは小説的でない職業の中で、読む物を抑制しようとした事にあるのだが。ようやく、この抑制は摩天楼の塵の中で、バランスを取り始めるようになったのであるが。

ソーシャルメディアの生態系』は、ネットワーク時代の、人のコミュニケーションを細胞や脳にたとえるあり方が面白い、スピノザの『エチカ』やドゥルーズガタリの『アンチ・オイデップス』はむづかしく、共有するのに時間がかかるが、『ソーシャルメディアの生態系』は、同じ事を言ってるような気がする。ネットワークが実現する自律性と分散は、スピノザの共通概念の考え方、とりわけジル・ドゥルーズが『スピノザ』の中で言っていることと同じであるのじゃないかな。

どの本もそうであるが、『ソーシャルメディアの生態系』も、色々な本の引用を通じて外の世界へ拡がっている。ゼダー・ヒルダコの『情報と秩序』への言及もあるからだ。

この本は書店の新刊棚に立てられてあったが、これまで、こうした種類の本は一冊も読んでいなかったように思う。文学や哲学を読まない多くの人たちは、このような本をたくさん読んで来ているのかも知れない。例えば、ドラッガーもそうであろうし、ガルブレイスや、フリードマンだってそうだろう。よほどに、哲学と文学、それと仕事や学業の経済に、どれほど毒されて(?)、自然な読書をしてきてなかったのであろう。

後悔先に立たず。しかし、こうも言える。こうした読書人生だったからこそ、今読むべき本、読書プロジェクトがレイトライフの中で浮かび上がって来たのだと。であれば、感謝をしてもよいというものである。

フロー体験と喜びの現象学者

『フロー体験と喜びの現象学』を昨日8/2/19(金)から読み始める。井筒俊彦の『コスモスとアンチコスモス』のように、今のところは読みやすい。『ドゥルーズ入門』は、『意味の論理学』を解説した箇所から意味が取りづらくなった。マズローの『完全なる経営』とかは、自己実現の超越というテーマから興味が湧いたが、途中で置いている。

基本は、『アラビアンナイト』が中心にある。仕事の読書をどう組み入れるのか。分離するのか。これが上記のフロー体験のテーマなのかも知れない。

ジェサミンをめぐるアラジンの危機

会社近くのビル垣根に白い花が咲いていた。こうしてみると、真ん中が赤だ。黄色い花は自宅近くの銀杏の街路樹にはえていたもの。雑草は力強い。ほったらかしにすると、どんどんはえてくる。

でも、どうして、花には、目を引かれてしまうのであろうか。

花は自然である。考えてみれば、私も自然の一部だ。会社員とか男性とか日本人とか会社名とか色々な属性として捉えれているが。死んでしまえば、塵となり、土の一部となる。

そう言えば、火葬後に骨は、骨壷に入れてしまうのだが、入りきれない骨の欠片や、それこそ灰は、たぶん、何処かに捨てていることだと思う。それらは、全国的に何処に廃棄されているのか。疑問として残るなあ、と思った通り。

・・・・・・・・・・・

◆ジェサミンをめぐるアラジンの危機

引続き「アラビアンナイト」(Kindle版)の3巻の2を読み続けている。

アラジンは、まもなく寝れ義ぬを着せられることになるだろう。バクダット太守の一人息子バザーが、アラジンを亡き者にしようとしている。

太守の息子バザーは奴隷市場で、ジェサミンを一目惚れした。当時は市場で人身売買されていたようだ。一方で、ジェサミンは、すでにアラジンの妻となった。バザーは、母に嫌だ、嫌だとダダをこねる。

このくだりを読みながら、フロイトラカンの解説書に書かれている「自己保存欲動と性欲動」が浮かんだ。フロイトは、すべての活動に性的なものをおいている(吉本隆明なら「対幻想」なのか)。

私はこれまでは、当然ながら知識や知見のレヴェルが低いことにより、このような考え方には否定的だったのであるが、「アラビアンナイト」をここまで読み進めながら、研究テーマの一つとなりうるのかなあ、とも思った。

◆◆ 普遍主義に対する特定主義

マイケル・ウォルツァーの『正義の領分〜多元性と平等の擁護』の「我が身を振り返って〜私の特定主義」は、7/24/19(水)に読んだのであるが、読んでいるとき、普遍主義に対する特定主義の考え方には、魅了された。

この本は、國部克彦氏の『アカウンタビリティから経営倫理』の中で、正義は1つではなく、複数であっても良いのではないか、と言う議論の中で、引き合いに出されて、興味を持った。

國部氏は、会計学者なので、財務会計のみならず、非財務などの複数評価への議論に収斂していくのであろうが。

ただし、マイケル・ウォルツァーの本は、とてもよい視点を与えてくてそうだが、本文がいまいち入りきれないテーマばかりで、上手く読みきれていない。効率的に集中して読めればなあ、とも思うのだが。

仕事(経済)と趣味(人間)の対立

今読んでるバートン版の『アラビアンナイト』(Kindle)は、三巻の1をまもなく読み終える。この頃の王さまは、恋をしてままならぬと、病気にもなるほどである。恋の相手に対しては美辞麗句、しかし、部下の手下が仕出かす失策に対しては、王子も妃も、その場で部下の首を落としてしまう。『ティール組織』のまさに「衝動型パラダイム」だ。

あとは、國部克彦氏の『アカウンタビリティから経済倫理へ』を少し読んだ。経済を中心とした社会から、人間を中心とした社会に変えないといけない。その中心にある会計を何とかしないと行けない、と言う。無形資産を会計の中に入れないといけないとする『会計の再生』とは視点が異なり、ハバーマスとかデリダとか、哲学的な議論には含蓄があり、勉強せんとなあ、と思った。

『何をしてもうまくいく人のシンプルな習慣』を拾い読みしているが、これは、ジャック・ラカンなど、斜に構えたエクリチュールを好む自分としては、『嫌われる勇気』などの本と同様に、嫌いであったのだが、でも、姿勢や好みは違うとしても、人はポジティブであるに、それはこしたことがないなあ、と思いながら拾い読み。

ラカン精神分析』と『ドゥルーズ入門』で、ジャック・ラカンジル・ドゥルーズの考え方を理解しようとしているが、素人独習ゆえに、まだまだ。


◆ 松方コレクション〜 その二
松方コレクションは、先の投稿でメモったが、印象的だったのは、ムンクの絵画4点のうち、ストリンドベリという劇作家の自画像、それと女、吸血鬼の3点だった。

と言うより、音声ガイドで聞いたムンクの前半生かも知れない。苦い恋愛経験と、もうひとつが家庭内の事であり、こちらが重要なのであろうが、忘れてしまう。

ただしこれはこの2つの経験が、後年の「叫び」に繋がったような、ないような。作者の実人生の経験が、如実に作品に現れていくという面では、コレクションで展示されていたモネなど印象派よりは、私にとっては分かりやすく思う。

例えば、それは実存哲学者のキルケゴールの実人生と一連の作品(「死に至る病」)、カフカヴィトゲンシュタインなどが浮かんだ。

ムンクにとって、絵画を描くということは、精神分析ジャック・ラカンが言う「サントーム(症状)」という事で、心の安定としての3つの環の欠損を補う「ボロメオの環」であったのかも知れない、と、まあ、解未消化の解説書でかじった考えが結びついて浮かんだ。

 

◆「事事無礙」と『差異と反復』

落合陽一の『デジタルネイチャー』の本全体の中で照会される井筒俊彦の「事事無礙・理理無礙」(『コスモスとアンチコスモス』)を読んでいて、ジル・ドゥルーズの固体が発生していく様が浮かび、檜垣立哉の『ドゥルーズ入門』を再読し始めた。

井筒俊彦の考え方と、ほぼ同じようにであるように感じているが、用語難しく頭でピンとこない部分もある。何とか理解したいとは思う。

同様に、ジャック・ラカンが、「ワカラン」と言われているように、魅力的なのだが、ワカラン。今日は昨年読み指していた片岡一竹氏の『新疾風怒濤精神分析用語辞典』を改めて引っ張りだし、「鏡像段階」から読み進めた。

ナルシスが水に浮かぶ自分の顔を見て、恋をする逸話だ。ここで、ナルシスは、水に映る自分を愛の対象とする。読んだときはピンときた。今はそうでもないな。

 

◆経済(仕事)と人間(趣味)の対立

とにかく、「理解」しないことには次に行けない。仕事でないからという理由で、これまで脇にそらしていた。まあ、でもでも、振替ってみて、格闘しても理解できていたかどうか。今は、よき解説本もあるし、廻り合いに感謝しなくては。

とすると、仕事の読書も、趣味の読書も同じことになるなあ!

理解して、自分と言う「情報プロテイン媒体」の中でミキシングしてアウトプットしていくと言うことになる。じゃあ、その違いは何かと言うと、経済と人間ということになる。

それを私は、「経済は仕事」で、「人間は趣味」と区分していることになる。では、どうして、私はそれを区分して、これまでの読書をしてきたのか、ということになる。

仕事をしている時は、経済を優先し、人間を抑制してきたのだ。言い換えれば、趣味を抑制してきたのだ。他方で、お休みの時は、人間・趣味を優先し、経済・仕事を忘れる。ワークアンドバランス、矛盾の世界である。

この事を会計的なアプローチで進めているのが、國部克彦氏の『アカウンタビリティから経済倫理へ』じゃないのかな。経済のみの会計から人間の会計へと。落合洋一の『日本再興戦略』も、そうした経済(仕事)と人間(趣味)の二項対立を乗り越え、ワークライフバランスじゃなくて、ワークアズライフを目指している。

わかっちゃいるけど、先ずは、経済も人間も一つひとつ理解しないとなと思う。