読書メモ・注釈

文学など理解用の読書メモです。

『アラビアンナイト』三巻の1 (Kindle版)

恋する王子や王妃は、相手にする対しては、とても思慕を寄せる。しかし 、自分の面倒をみる奴隷や、大臣であっても、言うことを聞かないと、横暴になり、恋する相手に対する姿勢とはこうも違うほど、暴力的になる。その落差が理解できない。

今は、7/13/19(土)なのであるが、アラビアンナイトは全部読み切ることができるであろうか。働きながらだと、通勤時間を利用するしかない、他の本も読んでいる。この長い物語は、比較的平易なので、物語の中に常にい続けることを優先しよう。読書プロジェクトとしては、この後、ホメーロスを読みたい所だが。

デジタルネイチャー

7/12/19(土)、スタバであいみょんのアルバム「瞬間的シックスセンス」を聴きながら、落合陽一の『デジタルネイチャー』を読み続ける。この本を通じて、井筒俊彦の『コスモスとアンチコスモス』という華厳哲学とイスラムの考え方には出会った。イスラムは、今読んでいる『アラビアンナイト』の世界でもある。『デジタルネイチャー』は、ビックバン的な発想があり 、これはジル・ドゥルーズの発生論の考え方に近いと感じた。解説本を通じてだが(『ジル・ドゥルーズ入門』)。

「混沌」から「発生」へ

7/12/19(金)の夜、部屋にあった『ドゥルーズ入門』を取り出し拾い読みした。

ドゥルーズ入門 (ちくま新書)

ドゥルーズ入門 (ちくま新書)

◆ 発生とビッグバン

「発生」が『差異と反復』では問題とされているという(檜垣立哉ドゥルーズ入門』ちくま新書)。これは、井筒俊彦ウジノ『コスモスとアンチコスモス』で議論されていることと、似ているように思う。

最初は、何もない、形も。しかし、形あれではないが、一撃の声とともに、あるいは、光あれとともに、形が発生し始める。宇宙の開闢と同じである。ビックバン、細胞の発生とも同じである。

『聖書』、『古事記』、『コーラン』等の本も、このような発生を記述しているのではないか。そして、混沌が発生するのは、見えるようになることであり、形になるということである。

見えるようになるとは、形を必要とするので、形態として、すなわち、個体というカタチを取らなくてはならない。個体の発生である。

混沌、カオスついでに、哲学者は、カオスを持ち帰ることを、ドゥルーズ=ガタリは、『哲学とは何か』で議論している。

「昭和な職場」から「令和な職場」へ

街に行くと、座る所がまだ少ない。スタバなどの喫茶店で、本を読んだり、休んだりするしかない。スタバなどに行く人は、同じことを考えているのだろうか。だから、スタバはいつも混雑しているのだと思う。お喋りしてる人もいるが、スマホやノートパソコンを見てる人も多いし。

勉強やスペース貸しがあるが、スタバやドトールよりも敷居が高い。お金を多少払っても、駅前に、自然と休めるスペースがあると良いと思うのだが。中々立ちっぱなし。コーヒーを飲むとか、食事のついでの休む空間があるだけだ。

休む、本を読む、スマホする、そんなくつろぎのついでで、美味しいコーヒーを飲む空間があっても良いと思うのだが。ある街には、コーワーキングスペースがあり、何度か利用した事があるが、1日いても1000円、とても良いが、少し駅から離れての七階だ。

これって、スタートアップ企業なのかな。落合陽一の『デジタルネイチャー』の「絶えずリセットされ続ける市場の出現」が浮かぶ。スタートアップ企業の最初の壁が図表化されている(短期間でリセットされる市場価値の図)。

まだ、「昭和など職場」(日経「昭和な職場」と低成長)なのかな。この記事では、年功脱してデジタル化を、を提唱してるが。

デジタル化は、まさしく落合陽一の世界だが、彼がよく引用するバックミンスター・フラーの『宇宙船地球号 操縦マニュアル』が語っていたコンピュータへの期待だ。現代では、ITとかだろうけれども。」

「事事無礙・理理無礙」を読む

これは、井筒俊彦の『コスモスとアンチコスモス』(岩波文庫)に納められた講演。無秩序の混沌(無)が、あるエネルギーにより、存在が分節して事的な世界を作り上げることが説明されている。理解できない箇所もあったが、これまで読んできた哲学が、違うアプローチから理解できたような気がした。

もともと、落合陽一の『デジタルネイチャー』(PLANETS)の本で、華厳哲学の言及で、この本を知った。

「アラビアンナイト」と華厳哲学

三巻の1を読んでいる(7/4/19水)。バートン版で、Kindle。いくつか訳が出ているが。三巻の1は、ロバ、獅子、馬の立場から、アダムの子(人間)を批判する物語となっている。

 

同時に、落合陽一の「デジタルネイチャー」も読む。この中で華厳哲学の言及あり、井筒俊彦の「コスモスとアンチコスモス」についての言及あり、その本も併せて読む。

フローベールの「地獄の夢」を読む (初期作品①/全集6巻)

3/5/19(水)、フローベールの「地獄の夢」を読み終える。1837年3月20日とあるので、本人14歳時(1821年12月12日)の作品である。 冒頭と末尾に、創世記の物語のように、悪魔と神のような声がでてきて、新しい世界を創造するとか、いや、もうそんな世界は作らなくても良いだとかの議論がある。そして、物語の中に入る。

悪魔と、世捨て人のアルチュール・グルマエロなる公爵が出てくるが、このアルチュールは退屈で、退屈でたまらない。希望や期待がかつてあったのかも知れないが、今は倦怠感のみ。彼は肉体を象徴しているのか。一方で、彼の前に表れる悪魔は、アルチュールの存在が欲しい、彼の肉体に宿る魂が欲しい。しかし、アルチュールは自分には魂などないと反論する。

悪魔は、じゃあ、ということで、村の娘、牛引きの娘ジュリエッタをなぜか選抜して、彼女の心にアルチュールに恋をするように図る。これはダンテの『新生』の中の「愛の神」を思わせる。結局、アルチュールは、悪魔の誘惑の化身である娘ジュリエッタになびくことなく、彼女は断崖から身を投げてしまう。

ただ、この間の時間軸が4年であるとか、また公爵アルチュールには、悪魔と対峙する時、翼があったりするので、普通のリアリズムとは違う。悪魔が誘惑の化身として差し向けるジュリエッタは生身の娘であるが、悪魔の力により、自分自身ではなくなっている。このくだりを読みながら、小説『ソラリス』を思い出した。